古武道歴史探訪 第十四回  2024年5月

淡路七人衆の一人「小田村城主 小田将監(向井将監・河井将監)」①

 「わらかみゆうたで小田衆じゃないか足なかはいてつま立てて」「小田の人ならことづけしましょ。黒竹やぶの将監さまに。」このふたつの歌が今も小田の人たちの間に伝わっているそうだ。

 淡路島の北東部にある仁井地区小田には「将監館」とよばれる城址跡が遺されている。城とはいっても館形式の土塁をめぐらしただけの戦国丘陵城郭で、城主は小田将監。小田将監は、永禄元年(1557)から元亀年間(1570~1573)のころに、阿波三好氏の輩として淡路国に割拠していた有力な国人・士豪といわれており、「淡路七人衆」の一人にあげられている。

 その人物像として、いくつかの言い伝えが残されているが、「質素・倹約を自ら実践するような徳を兼ね備えた城主であったらしく、村人たちからはずいぶんと慕われていたらしい」。さらには「髷を藁でくくってとんぼじょりを履いていた」とのこと。「とんぼじょりとは、足の半分ぐらいしかなく、かかとのほうは土についてしまうので、かかとをあげてつま先で歩くことになるような草履のこと」らしく、土地柄「小田という場所は、東浦(方面)から上がっても西浦(方面)からきても、登り坂だから、早くあがるためにも、つま先立てて」と、藁も半分で足りるからと、このように小田将監は常に質素・倹約に生活をしていたが、「村人たちには、みなが幸せなように便利なように、自分のお金をはたいてた」とあり、だから「小田の人ならことづけしましょ。黒竹やぶの将監さまに」といわれる歌が残っているのかと思われる。

 小田将監は、「将監」という官職名を名乗っていた。「将監」とは朝廷の六位に相当する官職名の一つで、こうした官職名は、家で代々世襲されることも多いとのことであるが、この小田将監の生涯等について、言い伝えのみがわずかに残されているだけで、ほとんど何もわかっていない。大楠公ゆかりの淡路の厄除八幡宮といわれる松帆神社創建にも、この小田将監(向井将監)が深くかかわっており、そこには名刀「菊一文字」があるため、その関連も含め、今後さまざまな方面から調べていこうと思う。

 

【参考】

〇七人衆とは、小田村城主 小田将監、山添村城主 加茂主殿助、鍛冶屋城主 白河刑部、鍛冶屋村城主 加集右近、加集中村城主 加集杢之助盛政、岩屋浦城主 真島彦太郎、柳沢村城主 柳沢越前守のこと(渡辺月右:『堅磐草』P.201参考)

〇郷土の城ものがたり(淡路編)

 

〇淡路市仁井地区の正井家系図 中山 一郎