古武道探訪 第七回  2022年10月

京都(夏休み特別探訪)編

 この度の探訪は、夏休みの特別特集として前回の尼崎編を離れ、京都の探訪をしました。

何回かに分けての掲載を予定しています。

 

今回は文化財特別公開として旧嵯峨御所大覚寺の霊宝館にて源義経所持・使用したと伝わる太刀「薄緑(膝丸)」を期間限定での特別展示を拝見しました。

 

京都嵯峨野旧御所大覚寺と北野天満宮で源氏の重宝として伝来した兄弟刀である「鬼切丸 別名髭切」と「薄緑 別名膝丸」の伝承に加えて、現代へ至る二振りの太刀に関して両社寺や源氏についても絡めながら、そしてGHQによる刀狩りを乗り越えた義経と頼朝の兄弟太刀と伝わる御神宝であるうちの一つ「薄緑(膝丸)」の歴史を今回は紐解いて行きたいと思います。

 

 大覚寺は、嵯峨天皇と弘法大師空海との歴史交流の舞台となります。平安時代初期に嵯峨天皇が営まれた離宮「嵯峨御所」を「大覚寺」と改め、歴代天皇や皇族関係者がその後も住職をつとめた門跡寺院です。平安時代初期に嵯峨天皇がこの地に離宮「嵯峨院」を建立、「嵯峨御所」と呼ばれたのが大覚寺の始まりです。現在の本堂や庭園は、大火災のために焼失後に元の広さや位置を変えて再建築されたものです。

 

大覚寺に伝わる「薄緑」は源義経旧蔵の太刀と伝わる寺宝であり「膝丸」の伝承をもつ門跡寺院の名刀として知られています。太刀に付属する『薄緑太刀伝来』によると、安井門跡に代々伝わっていたものであり、明治維新後に門跡が廃された後、大覚寺に移されたものと記されています。茎(なかご、柄に収まる手に持つ部分)の上部に「□忠」と銘が切られていて、一字目の□部分は大きく破損しているため判読不明な箇所となってます。目釘穴の上の方に銘がある特徴は古備前派刀工の作品にまま見られるものであり、長船派の祖である光忠の父にあたる古備前派近忠、もしくは同派の実忠や家忠によって作られたと推測されているようです。しかし、古備前派近忠の在銘確実な作例が存在せず決定打にかけるとされてもいます。

 

膝丸は、平家物語に付属する「剣巻」の物語から登場します。剣巻は代々、源氏の興亡・事蹟と、剣についてのエピソードで構成されており、基本的に各時代で活躍した源氏が剣の主ということになっています。源氏の興亡に関しては、概ね歴史的事実をもとに書かれているようですが、剣の由来や逸話は創作だとおもわれます。物語の冒頭での最初の持ち主は、清和源氏二代目、清和天皇の曾孫にあたる、源(多田)満仲(912997)が、皇籍を臣下し国の守護をするよう勅宣を受けます。源満仲は、それにふさわしい刀を手に入れようと刀鍛冶を集めますが、なかなかにこれと思うような太刀ができませんでした。そんなとき、筑前国(福岡県西部)の三笠郡土山に優れた刀鍛冶がいるという噂を聞き、さっそく呼び寄せましたが、やはり気に入る刀剣はできませんでした。これでは名工の名が廃ると、刀鍛冶は八幡宮にお籠りをし、思うような刀が打てるよう祈願し手を尽くします。そして7日目の夜、刀鍛冶は夢の中で八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ:八幡宮の祭神に対して奉られた菩薩号)からお告げを受け、お告げの通りに60日間かけて長さ27寸(約87.1cm)の2振の太刀を鍛え上げました。試し切りとして、罪人の首を斬ったところ、膝のあたりまで斬り下げたので膝丸と名付けられ、もう1振の刀剣は髭まで見事に切り落としたため「髭切」と名付けられました。

 

大覚寺所蔵:太刀 銘「□忠」 薄緑(膝丸) 鎌倉時代 全長109.4㎝、刃長87.1㎝、刀身反3.7㎝、重量924.5

大覚寺所蔵の薄緑(膝丸)の伝来については、複数の文献が残されています。大覚寺所蔵「薄緑太刀伝来」 入江家に伝来「入江文書」 京都府立京都学所蔵「薄緑伝」 写し、宮内庁と国立公文書館所蔵「名剣膝丸」写し、金沢市立玉川図書館「諸邦諸品雑志」写し。

  

所説ある薄緑ですが、薄緑は度々呼び名を変えて登場しています。

金刀比羅本『平治物語』による記述では、薄緑は源朝長の太刀として登場しますが、膝丸という刀は登場せず髭切だけが源家重代の刀として語られています。

 

『平家物語』剣巻では、二人目の主は満仲の子、藤原道長の側近であった源頼光(912997)でした。この時代では、源氏物語や枕草子が書かれ、陰陽師が都に出没するもののけを退治すると信じられていました。
源頼光を熱病に苦しめたもののけの伝説では、雪のように色白の美女に化けた土蜘蛛を切り倒しことから膝丸は名を蜘蛛切と改めました。
源頼基、源頼義、源義家を経て源為義の代には夜に蛇の泣くような声で吠えたので吼丸と名を改めています。
その後、為義の娘婿である熊野別当行範に引出物として譲られ、行範は「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え熊野権現に奉納しました。後に熊野別当湛増から源義経に吼丸が贈られ、それを大層喜んだ義経は刀の名を熊野の春の山に由来する薄緑と改めました。
平家を討ち滅ぼした後に義経と源頼朝が仲違いし、義経は腰越状を書くも許されず兄との関係修復を祈願して薄緑を箱根権現に奉納しました。しかし、薄緑を手放した事が義経の命運を決定付け、奥州で討たれることになってしまいました。

薄緑はその後、箱根別当行実から曾我五郎(曾我時致)に渡り、曾我兄弟の仇討ちを経て源頼朝のもとに渡り、そこで髭切と一具に戻ります。

刀剣伝書『能阿弥銘尽』では、長円作の薄緑を源義経が平家追討に西国へ行く際に箱根権現に納め、後に別当から曾我五郎に渡り仇を討ったと書かれています。

『吾妻鏡』では、文治元年(1185年)1019日の記録で、かつて源義朝が後白河法皇に吠丸という御護りの御剣を献上したが2年前に紛失していたのを大江公朝が探し出して献上した、と記載がある。また寿永2年(1183年)の平家都落ちの際に平清経が後白河法皇の院御所の法住寺殿から吠丸と一緒に奪った鵜丸という御剣を源範頼が九州遠征の際に取り戻して献上した、とあり。鵜丸は源為義に与えられていたが、為義の死後は朝廷に返されていた。

 

『曽我物語』では、義経は鞍馬寺で毘沙門天に祈り夢想を得て、源義朝が平治の乱の戦勝祈願に鞍馬に納めた二尺八寸の源氏重代の太刀を寺から盗み出した。『曽我物語』は異本・類本が多数ありそれぞれ細部が異なり、義経が箱根権現に刀を奉納する理由は平家征伐や木曽義仲討伐の戦勝祈願、頼朝との仲直り祈願と本ごとに様々である。後に箱根別当から兵庫鎖の太刀として曽我五郎に餞別に贈られ仇の工藤祐経を討ち、源頼朝の手に渡った。
『曽我物語』や能・人形浄瑠璃・歌舞伎の曽我物では義経が使っていた太刀の名前は友切(剣巻では髭切の別名)とされることが多く、源氏重代の太刀はこの一振のみ語られる事も多い。
仮名本『曽我物語』では巻八
箱根にて暇乞の事 で「てうか(朝霞)、虫ばみ、毒蛇、姫切、友切」と名を変えた話が語られる他、巻九 五郎召し取らるる事 で曽我兄弟の仇討ちに際して頼朝が重代の髭切を手に出ようとして家臣に諌められる場面があり、ここでは友切と髭切が別物として描写されている。真名本や大石寺本では頼朝の太刀に名前はない。

 

『義経記』は義経は子供の頃、鞍馬寺で別当東光坊の阿闍梨から守刀として今剣を授けられ平家討伐の折にも鎧の下に持ち、最期はこれで自害した。義経はまた(剣の巻の膝丸と同じく)熊野別当より受け取った二尺七寸の黄金造りの太刀(こがねつくりのたち)も持っており、これは兄の頼朝に追われる途中の吉野の山中で一人残る佐藤忠信に餞けに贈られた。忠信は追っ手の軍勢と奮戦するが最期は切腹した後にこの義経より賜った太刀で喉を貫いて自害した。義経は牛若時代に貴船で修行する時や五条で弁慶に出会った時も黄金造りの太刀を帯びており、千本目の太刀として求める弁慶に「是は重代の太刀にて叶うまじ」と断る場面もあるが、これらが全て同一の太刀の設定かははっきりしない。(忠信に太刀を与えた後にも義経が黄金造りの太刀を帯びている描写がある)

 

最近の研究として2018年に京都国立博物館が調査したところ、薄緑の刀箱は菊と桐の飾り金具がついた長さ約160cmの箱であるが、大覚寺に伝わる別の刀のために作られた箱であることが判明しています。2020年には勧進により刀箱とハバキを新調しています。

 

≪つづく≫

 

 

参考:

大覚寺ホームページ、

増補改訂版 源氏兄弟考察本、

大覚寺の宝刀薄緑 その伝承と来歴、

大津雄一他編『平家物語大事典』【剣の巻】、

京都国立博物館

源氏の重宝「膝丸」の刀箱、本来は別の刀の箱だった 京都新聞 (2020428)