居合稽古の楽しみを伝え、同好の士を募ります。

 

(1)そもそも居合とは何でしょう?

居合とは抜刀術のことです。説明になっていないかも。

刀を抜く動作で襲ってくる敵を切るのです。

真剣や居合刀を使って稽古するので、基本的には相手を立てず、一人で稽古します。

竹刀で打ち合ったりする剣道とは、イメージがずいぶん違います。

 

(2)居合は何の役に立つのでしょう?

空手やボクシングなどのように喧嘩のときに役に立つ…ことはありません。
(殴り合いの喧嘩の経験があまりないので、実際のところよく分かりません。

ぼんやりしているようで(私のことです)、実は強いのかも…)
剣道や柔道、フェンシングなどのように試合で勝つことが楽しい…わけではない。
(団体によっては居合でも試合はありますが、貫汪館では聞いたことありません…)
体操やヨガのように身心が鍛えられ、健康な体を作れる…かもしれませんが、
たぶん体操やヨガを直接やったほうが良いでしょう。
そもそも、現代では刀を腰に差しているわけではないので、居合術そのものが直接何かの役に立つことはないのです。

 

(3)ではなぜ私は同好の士を募るのでしょう?

理由は簡単。一人でできない稽古方法があるからです。手前勝手な理由ですね。

基本的には一人で稽古できるのですが、貫汪館の居合の素晴らしいところは、

木刀を用いた二人で行う稽古が伝えられていることです。二人で行う稽古をやっているところは少ないと思います。よく知りませんけど。

 

その上、刀が抜けない状況を想定した形もあるのです。相手が私の刀の柄を持つのです!どうしろって言うの!初めて体験したときには驚きました。抜刀術の流派なのに、抜刀できないことを想定するなんて!でもまあ、考えてみれば当たり前の話でした。武士は生き抜くことが必要です。「刀が抜けないから、ちょっと待って」とは言えません。何とか生き延びねば。

そこで、柔術的な技法で対応するのです。これも二人で稽古します。

私は高校の一年間だけ柔道経験がありますが、これは決して柔道ではありません。柔術というのでしょう。力やスピードで勝負をするのではないのです。とても不思議な感覚です。うまく伝えられないのがモドカシイ。

この柔術がミソのような気がしています。力で対応するのではないので、自分の技が効いていないと相手は転んでくれません。力を使うとすぐに相手に何をしようとしているのかバレてしまい、逆の対応をされてしまう。

居合の一人稽古や二人での稽古で、流儀の体の使い方で出来るようになったのか、ここで一発で思い知らされる。

 

まとめるとこうです。

まずは一人で稽古を行い、流儀の体の使い方を学ぶ。

次に相手を立てて、一人相撲にならないように使える体にする。

そして、抜刀術が使えない状況で、柔術の技法を学ぶのですが、

技の効き具合によって流儀の体の使い方ができているのかどうかわかる。

最後に、複数の敵やさまざまな状況を想定した抜刀術の形に至る。

 

いろんな状況でいかに上手に体を使って対応するかを学ぶのです。

どうです?素晴らしい稽古体系でしょう?

 

付け加えて。

抜刀術は速度が命だと思います。だって敵が襲ってきているのですから。

でも、貫汪館ではゆっくりゆっくり動きます。力を使わないように動きます。

なぜ?

 

私もまだ修行中ですので、本当のところは分かりません。

でもおそらく、体の動きの質を変えようとしているのだと思います。

力を入れなければ、どうして動きの質が変わるのか?

これが私にはうまく説明できないのです。修行者たる所以です。

 

力を入れないことの優位性は、以下のように説明できると思います。

力を入れて踏ん張った状態より、力を抜いて楽に立っているほうが、すぐに動けて変化に対応しやすいでしょ?

でも貫汪館で求められるレベルは常識レベルではありませんが。

武士は老いても武士なのです。力やスピードだけで勝負していたら、生き残れない。体の使い方の質を変えていくのです。きっと。

 

どうでしょう?長い説明になってしまいました。

動きの質を変えるための優れた稽古体系。そして、動きの質を変えるためには、自分の心と向き合うことが大切になります。

抜刀術そのものは今の世には役に立ちませんが、体の使い方を通して、心を学んでいくのです。稽古で培ったものはきっと役に立つはずです。

 

一緒に稽古しませんか?

結局これが言いたかった。