古武道探訪 第三回   2022年6月

尼崎市編

 第三回目は、大阪市とは目と鼻の先である尼崎市に、かつてあった尼崎藩について、当時どのような武術や流派が存在していたのか、又は現在も受け継がれているのかを探ってみました。

 尼崎藩の尼崎城は、当時は目の前に広がる海と、摂津国川辺郡・武庫郡・菟原郡・八部郡(現在の兵庫県尼崎市・宝塚市・西宮市・芦屋市・神戸市南部・伊丹市の一部・川西市・猪名川町)を領した藩でした。大坂城の西の守りとして築城され大坂夏の陣後、江戸幕府は大坂を直轄地として西国支配の拠点とするため元和3(1617)年、譜代大名の戸田氏鉄に尼崎城を築城させ、大坂の西の守りとしました。

 

尼崎城は、翌元和4(1618)年から数年の歳月をかけ幕府は一国一城令により、尼崎には5万石の大名の居城としては大きすぎる城をあえて造らせています。このことからも、幕府がいかに尼崎を重要視していたかが伺い知れます。

また、尼崎城下町には2万人近い人々が暮らす、阪神間随一の城下町として大いに栄えていた様です。尼崎城は、戸田氏・青山氏・(櫻井)松平氏と、代々譜代大名が藩主を務める尼崎藩政の中心として、明治時代の廃藩・廃城が決定するまでは常に修復を繰り返しながら約250年間も繁栄しました。特に最後の藩主の櫻井松平氏は、現在の日本赤十字社の前身である博愛社の創設者の一人でもありました。尼崎城に近い櫻井神社には廃城した城の一部を利用した博愛社設立の記念石碑が配されています。

 

その尼崎藩ですが槍術指南役として、2代目藩主・戸田氏鉄の時代に櫻井半兵衛(慶長14年(1609年) - 寛永11117日(16341226日))江戸時代前期の武士、武術家)という武士がおられました。またの名を霞の半兵衛との異名を取っていたとも伝えられています。大和郡山藩剣術指南役・河合甚左衛門の親戚にあたり、岡山藩士・河合又五郎の妹婿でもある半兵衛は、日本三大仇討(曽我兄弟の仇討、赤穂事件、鍵屋の辻の決闘)に登場する人物であるという事がわかりました。この時代背景としては、摂津や播磨など近くの国の動向を探るため忍も雇っていた様です。

 櫻井半兵衛の時代の槍術の流派として、古新連集流(古新連勝流)という流派と本心鏡智流という流派が存在していた様です。現在はどちらも流派としては存在しておらず、個人的に研究、復活を試み活動なさっておられる方はいらっしゃるとのこと。資料によると鉤を主体に用いて敵を制す流儀で、本質的には現在も受け継がれている樫原流と酷似。居合については矛新心流居合という流派が存在していた様です。柔新心流居合は姫路藩、山崎藩でも正式に採用され、播州藩では盛んな流儀であった様ですが、こちらはその資料等も乏しくどんな流派であったかを窺い知ることはできませんでした。

 

さて、櫻井半兵衛ですが、槍術指南役のことや剣術について殆ど資料は残されておらず、どのような指南であったかをもう、知ることはできませんでしたが、先に記しました「日本三大仇討」の半兵衛のエピソードについて、国立国会図書館の蔵書よりご紹介したいと思います。

江戸時代初期に起こった「鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討)」で、首謀者は荒木又右衛門と渡辺数馬の2人。この仇討の発端は、数馬の弟の渡辺源太夫という岡山藩主・池田忠雄の小姓を巡る略奪愛から始まる。源太夫は当時の岡山藩主・池田忠雄の寵愛を受けていたのだが、藩士の河合又五郎が源太夫に恋をしてしまい関係を迫る。しかし、当然断わられてしまう。これに怒った又五郎は源太夫を殺害してしまう。脱藩し江戸で旗本に匿われる。池田忠雄は又五郎を討伐するため、身柄を要求するが旗本ともめてしまう。

やがて池田忠雄は病気で他界。又五郎が先の争いの代償として江戸追放を受けると、渡辺数馬は池田忠雄の意志を受け継ぎ脱藩し、又五郎討伐への意を決する。しかし、剣術が得意でない数馬は、義兄の荒木又右衛門(剣術指南役)から剣術を学び、助太刀も頼むことにした。

そして、寛永11(1634)に又五郎の居場所を突き止めた。又五郎は危険を感じて、江戸へ逃げようとするが、4(数馬と又右衛門と門弟2)は道中の鍵屋の辻(現在の三重県)で又五郎は待ち伏せされてしまう。鍵屋の辻を通行した又五郎一行に数馬と又右衛門が斬りかかり決闘が始まった。又五郎側は11人いたが、手練であった河合甚左衛門と桜井半兵衛が早々に討ち取られる。戦意喪失した5人は逃亡。又五郎含む4人が死亡、2人が負傷した。数馬側は4人中1人が死亡し3人が負傷した。

又五郎は最後は取り囲まれ、数馬と一対一の戦いとなったが、双方は剣術に慣れておらず決闘は数時間にも及んだ。ようやく数馬が又五郎に傷を負わせたところで又右衛門がとどめを刺す。仇討を成し遂げた数馬と又右衛門は、鳥取藩に匿われるが、又右衛門は翌年に謎の突然死を迎えている。と、いうなんとも切ない半兵衛の最期でありました。

 

上段:太刀銘守家 鎌倉時代中期の刀匠 備前畠田、初代守家作の太刀(国重要文化財指定)

下段左:実際に使用された鎖鎌

下段中:まろほし、十手と鉤付き、カラクリ十手とも言う

下段右:脇指、銘 和泉守 藤原国貞(江戸時代)

 

 

※参考資料

・尼崎市冊子 尼崎城を知る

・兵庫県立歴史博物館

・尼崎信用金庫 尼信会館、城下町尼崎展重要文化財

・尼崎市教育委員会 所蔵資料

・国立国会図書館蔵 白井雲厓 著、荒木又右衛門 : 伊賀越敵討 25