京都演武

5月4日に下鴨神社、5日に白峯神宮にて、奉納演武に参加させていただきました。

前日の3日から師匠に大阪にお越しいただき、ご指導いただきました。

奉納演武のためだけの稽古ではなく、鎗や長刀もご持参くださり、多くの学びがありました。毎度毎度のことですが、師匠に教えを受けると、ぞくぞくするような楽しさを味わえます。

この楽しさをうまく文章にできないのがもどかしい。

 

鎗を遣えば、わずかな手元の動きで相手の鎗を制するのですが、根本的な体の遣い方は剣術と同じでした。それを真鎗で学ぶことができました。

長刀では手の内を滑らせて、重さを利用した動きにすること。

支部メンバーはみるみる上達していき、どんどん間合いが詰まってきて、本身の長刀のすごさを感じることができました。ちょっとひやひやしましたね。

令和の世で、本物の鎗や長刀を手にする機会などあり得ないでしょう。得難い体験です。

六尺棒も手の内をいかに柔らかく遣うがポイントでした。体と棒を一体化させ、間合に応じて棒の出し入れを行います。

鎗も長刀も六尺棒も、いかに筋力で扱わずに重さや長さを利用するかがポイントです。

それを伝えるために、わざわざ多くの長尺ものをご持参くださったのでした。

 

柔術では、込入、打込、互棒を教えて頂きました。演武をする技のみですが、履形で学んだ体の遣い方と同じです。むずかしいのは、それぞれ間合が異なるためにより難しい状況になっているだけ。頭では理解できているものの、体はすぐに対応できず、つい腕力や勢いで自分勝手に相手をどうにかしようと技をかけてしまいます。柔術はとくに相手と一体になることが大事で、自分が楽に動くことで相手が巻き込まれて崩れていくように感じます。

つながりが大事です。

 

奉納演武では、私は師匠の柔術の技を受けさせていただきました。四留と三尺棒、三尺棒御膳捕。私の役は楽なもので、師匠の手首を掴んだり、三尺棒で打ちかかったり、懐剣で斬り付けたりするだけ。どこをどうされたのかさっぱり分からずに、組み伏せられ、転がされるだけで終わりです。稽古でも何度か受をさせてもらいましたが、本番はキレキレです。

技を耐えることもできず、ましてや上手に投げられるような真似もできず。

本当にどうしようもなく、組み伏せられ、転がされている様子が伝わったのではないかと思います。

 

全体的な総括として、多くの教えを受けて理解は進み、体も動くようになった気がしていますが、実際に演武でそれを発揮できたかというと、十分ではありませんでした。

ラジオに出演された師匠が言われていたように、形から離れ自由になるのが最終的な目標ですが、まだまだ技を追求していかないとそんな心境にはなれません。

精進あるのみですね。

 

で、今日は演武を通じて学んだ内容を再確認。ゆっくり動いて復習です。

3時間の稽古時間ではまったく足りません。

楽しくて仕方がないのですが、この楽しさを多くの人に伝えるのが難しい。