詰合

今日は剣道を稽古する人たちが溢れていました。実は昨日もたくさんいて、場所を確保するのも大変でしたが、今日は昨日以上。購入しているチケットを見ると市外の方が多く、ひょっとすると稽古する場所がなくて、流れてきたのかと思います。

なんにせよ、元気に大きな声で発声して気持がよいでしょうね。

が、道場を共有する者からすると、竹刀を打ち合う音や発声で会話もままならず大変。

互いに接触の怪我だけしないように気を付けたいです。

 

今日はお一人しか稽古に来られず、懸案だった「詰合」を最後までお伝えしました。

マンツーマンが基本の教え方なのでよい機会だったのですが、詰合のような二人で組んで行う形は、見本を見せることが出来ないのでちょっと大変ですね。

詰合は英信流表の後に学ぶ形。英信流表の体遣いができていないと出来ません。

逆にいうと、詰合が出来ないということは、英信流表が出来ていないということ。

詰合が出来ないことで、出来ていると思っていた英信流表が実は出来ていなかったことを思い知るという悲しい?事実を突きつけられる訳です。

 

これは私がいつも経験することです。たとえば大小詰では力任せで動いている自分を発見し、太刀打では間合や想定の甘さに痛感し、奥居合では固い自分の動きに呆然。

そんな経験を繰り返して自分の悪いところを見据えて、元に戻って稽古する。

三歩進んで二歩さがる。

三歩進んで四歩さがっているような気がするときもありますが、気にしない。気にしない。

それにしても、本当によく出来ている稽古体系だなあと感心します。

 

私にとって新しい形を学ぶということは、出来ない自分や考えていなかったモノの見方を学ぶということです。これは楽しいことですね。