手の内

日曜の午前の稽古です。稽古ができるようになったので、思い立って武道館に行きました。今日は昨日とは打って変わって明るい陽射しでした。

 

武道館の一階は、居合のグループ、古武道、テコンドー、なぎなた、太極拳、空手と多くの人が稽古をしています。日曜の朝だというのに、他にすることがないのか?と思いますね。自分のことは差し置いて。

 

指導する声、気合い、掛け声が響く中、一人で黙々と稽古するのは、なかなか難しいものです。とくに、指導の一環なのでしょうが、子どもに向かって怒鳴りつけるような声が聞こえたり、駄目だお前は、みたいな言葉も聞こえます。こちらの気が滅入ってしまいます。私は人は褒めて育つという意見に賛成なので、駄目だしされたり怒鳴られたりすると、他人事ながら同情を禁じえません。

 

さて、そんな雑音に惑わされながらも、稽古を進めます。

今日は「手の内」について考えます。

高野佐三郎という明治に活躍した剣道の大家がおられます。この人は小野派一刀流を修め、近代剣道を導いた人として知られています。年老いても一流の剣道家であった人ですが、手の内は赤ちゃんのように柔らかかったそうです。また、別の人の話であったと思いますが、達人と呼ばれた人の弟子の育成法の中で、自分の指二本を握らせ手の内の良しあしを伝えたという話もあります。

ここでは竹刀ですが、刀でも同じことが言えると思います。

やさしく握らねばならないという教えでしょう。またまた宮本武蔵にも登場願いますが、やっぱり小指、薬指の順に力をいれるが、他の指はそっと握るということを書いていますし、斬るときも、刀を持つときと同じような手の内をしなさいと教えています。

 

刀の握りは、腕の裏の筋を意識して、その筋が小指、薬指につながっていて、その二本指で優しく包むようにするのがよいように思います。中段に構えて、剣先を引っ張られたり、押されたりしても、しっかり支えていることができます。もちろん力は入れていません。この握りは貫汪館でいろいろ稽古するうちに、たどり着いた手の内です。正しいのかどうかよく分かりませんが、刀がぶれず、力も要らず、しかも意識が剣先まで通るように感じられます。少なくとも私には。

この状態のまま、切る動作ができれば納得いく動きになるのですが、つい斬るほうに意識がいってしまい、手の内のバランスが崩れます。用心して斬る動作を繰り返すしかありません。

それに、両手の位置関係も重要です。刀によって違いはあるのでしょうが、両手が近いほうが、手の内のバランスが崩れにくいようです。剣道では両手を離します。テコの原理を利用すると説明されますが、果たして理に適っているのかどうか。両手を詰めると体全体を柔らかく使わなければならないように思いますが、両手を離すと腕で何とかしようとして、肝心の本体が疎かになる気がするのです。第一、剣道のような振りでは、刃筋が通りませんしね。

 

手の内と両手の間隔は大事なことですので、これからも研究を続けます。

 

さて、テーマを決めて書くように挑戦をしていますが、これは想像以上に大変なことでした。日々の稽古で考えていることを記しているのですが、文章にすると自分の考えの甘さがよく分かります。公表している訳ですから、文責も出てきます。ひょっとして稽古以上に大変なことをしているのでは?と思うときもあったりして。

それに。

見やすいように最新ブログ…もとい最新日記のみ掲示すると、たとえば今回のように土曜、日曜と続けて稽古すると、土曜に書いたものは一日しか掲示されないという可哀そうなことになるのです。私の努力は!!と言いたくなるのですが、よく考えれば、最新分の二日分を掲示できるようにすれば良かったのでした。あはは。

気づくのが遅かったので、土曜の努力を少しでも長く掲示しようと思って、日曜に書いたこの日記を今(火曜の夜)まで公開しませんでした。オロカモノ。

 

                       平成二十六年二月九日

                      平成二十六年二月十一日更新