無雙神傳英信流抜刀兵法

無双神伝英信流の特徴

無双神伝英信流は抜刀術の流派です。「居合稽古の楽しみ」にたくさん書いてしまったので、ここであまり書くことはないように思いますが、できるだけ重複しないように解説したいと思います。

 

無双神伝英信流。似たような名の流派がたくさんあります。

「無双直伝英信流」「夢想神伝流」「夢想神伝重信流」などなど。

無双直伝英信流とはある時まで同じ歴史を持つ流派ですし、業の名称も重複しているものが多い。この無双直伝英信流との関係は非常にややこしい。こういう場合、どちらが正統かということが議論されますが、私はそんな議論に関わりたくないので深入りせず、無双神伝英信流の技術的な特徴を説明することにします。

若いころに無双直伝英信流を学んだので、できるところは比較をしていくことにしましょう。

 

無双神伝英信流での立膝は半身になります。「直伝」では正対していますね。

半身の利点は、抜刀が容易なことです。立膝に坐した段階ですでに抜刀がある程度終わっているのです。これは実際に坐ってもらえれば分かります。

使用する刀も長大なものです。どれくらい長大かというと、身長174センチの私が扱う居合刀は三尺あります。重量は2キロ。(もちろん特注です)

「直伝」の頃に使っていたのは二尺四寸五分でした。これだと簡単に手だけで抜けてしまいます。三尺になると、腕だけでは抜けません。体全体を弛めて使わないといけないのです。これが稽古になるのです。

無理無駄のない体遣いが求められるわけですね。

いかに心身と刀を一体化させるのか。それが問われているのです。

スピードや腕力による振りの強さなどは問題視されません。

女性でも出来るというのは、そういう意味です。


大森流と英信流表

正坐で遣う大森流や立膝で行う英信流表は一人で稽古を行います。

掛かってくる敵にどのように応対するのか。業を通して呼吸と姿勢、体遣いを学びます。けっしてスピードを求めず、楽に動けることを求めるのです。面白いのは、楽に動けていると自分では思っていても、師匠に体遣いの指導を受け、深く心身ともに納得できると今まで楽だと思っていた動きがもう出来なくなることです。つまり流儀の体遣いのほうが、自分勝手な解釈の「楽」より、ずっと深いレベルまで「楽」が追求されているということです。だからこそ、伝統を学ぶ意義があるのですけど。

また、「深く心身ともに納得できる」というところがポイントです。一回の指導で腑に落ちる(=深く納得)ことが出来れば、その場で体遣いが変わります。同じことを何度も指導を受けても納得が出来なければ、まったく変わりません。素直に教えを求めることが要求されます。

修行には、自分の体格にふさわしい居合刀または真剣を用います。

先に説明したとおり、一般に使われているより長大な刀を遣います。刀が己を指導してくれる。そんな気分になる体遣いを体得することがここでの主な目的と私は理解しています。


太刀打と詰合

二人で行う稽古方法です。基本的には上級者の攻めを己が応じて勝つように業が組み立てられています。太刀打は互いに立った姿勢で、遠間から近寄って行って打ち合います。詰合は文字通り、詰め合うように近間で互いに立膝の状態で始めます。後半からは遠間からの攻防になりますけど。

大森流と英信流表で、どれほどの体遣いができたのか。ここで上級者には簡単に分かってしまいます。こちらからしてみれば、あくまで想定ということで、仮想の敵と対していた大森流と英信流表から、実際の敵!(しかも自分より出来る!)を相手にしなければなりません。自分勝手に動いていては斬られてしまいます(双方、木刀を遣うのですが)。

一気に難しくなるのですが、それは自分で勝手に難しく感じているだけで、実は英信流表と同じ体遣いを求められているだけなのです。


大小詰と大小立詰

ここではガラリと業が変わります。大小詰は、二人での稽古で詰合のように近間で立膝に坐しますが、上級者は刀(木刀ですが)を持ってません!それで、こちらの刀の柄を押さえたり、つかんだりしてくるのです!こちらは刀を抜けずに(抜かずに)相手を制するのです。柔術のように相手をひっくり返します(ひっくり返された時に邪魔だから上級者は刀を差していないのです)。

これがムズカシイ!体重○○キロの男性(または女性)をひっくり返すのに、「今、力を使った」と指摘されるのですが、これってどうです?

…力を使ってはいけないのです。特に腕の力は。合気道には呼吸投げとかいう神秘的?な業があるそうですが、それに近いのですかね?

まだまだムズカシクて、私にはうまく説明できません。

ひっくり返そうとして、上級者にぶら下がったり、覆いかぶさったりするのですが、ちっともひっくり返ってくれない。体遣いの要求がここでもレベルアップしてしまうのです。

たまに出来ると(繰り返し出来ないところが悲しい)、とても嬉しくなる。

そんな形?です。これって形なのか?形というよりテストって感じですね。

大小立詰は、立ってやります。ムズカシサは変わりません。


英信流奥

さまざまな体遣いの稽古を経て、ようやく奥にたどり着きました。

奥は、また一人での稽古になります。想定が変わって、今度は一対多。

複数の敵をさまざまな状況でいかに制するか。ここでも体遣いはレベルアップするのですが、むしろ心の問題に入っていくのだと思います。

いや、実は大森流から大小立詰までも心の問題だったのです。

これは一人一人の問題なので、ここでは語れません。

奥では、いかに心と体が一体となっているかを最終的な状況で試されることになります。